言葉を大切にすること

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言葉を大切にすること

社長の一言

2024/02/08 言葉を大切にすること

言葉を大切にすること
◆はじめに
「#自分にとって大切なこと」というテーマで真っ先に浮かんだのは「言葉を大切にする」ということだ。その「大切にする」を具体的に言うと大きく分けて3つある。

1. 他人の言葉で満足せず自分で言語化すること。

2. 言葉の暴力性を忘れずに、心に誠実な言葉を紡ぐこと。

3. 目の前の言葉に自覚的であること。

どういうことなのか、1つずつ詳しく書いてみたい。どれも僕にとって本当に大切なことだ。

1. 他人の言葉で満足せず自分で言語化すること
インターネット上で、ごくごくたまに驚くほど自分と感覚が似ているな、と思う物書きの人に出会うことがある。最初はその人が書いた文章を興味深く追いかけるのだけど、その根底に流れている感覚があまりに自分と似すぎていると、僕は何となく距離をとり、その人の文章に目を通すのを避けるようになる。

いつか自分がひっそりと言葉にするかもしれないことの一端を、先にその人の言葉で見てしまいそうで、そうなった時に自分なりの感覚がわずかにでも薄れてしまいそうで、何だか少し怖くなるのだ。

冒頭から極端なことを書いたけど、それぐらい、自分が感じたことを自分の言葉で表現することが好きだ。そんな僕は、感じたことに言葉が追いつくのがまあまあ遅い人だと思う。これだ、と思う言葉が自分の内側から出てくるまでかなり時間を要することがよくある。

言葉にするということは、自分の考えを整理して感情を再認識するということでもある。そういう意味では、言葉が感情に追いつくのが遅いというより、”自分が本当に感じていること”を深く理解するまでに時間がかかっているだけかもしれないなとも思う。

***

インターネットの世界ではスピーディーに的確に言葉を操る猛者(と呼びたくなるような人)がたくさんいて、例えば興味のあることについて情報を追っていて「この人の着眼点や分析や言葉はすごいなぁ」と感じ入ることもよくある。でも、なるべくそこで終わりにしたくない。

それが自分にとって大切なことであればあるほど、時間をかけてでも自分なりに感じたことを言葉にしておきたい、と思う。うまい表現ができなくてもいい。大勢の共感を呼ばなくてもいい。自分の”本当の言葉”が出てくるまで待って、自分なりに言葉で表現すること、それ自体が大切だと思う。

なぜかというと、言語化する力、ひいては思考する力は筋肉のようなもので、さぼっていると衰えていく一方だからだ。そのスピードを誰かと競う必要はないから、マイペースに筋トレを続けていくことを心がけたいと思っている。

例えば誰かのツイートやnoteなどがバズって流れてきた時に、「思っていることをそのまま言語化してもらえた」というような称賛の感想をよく見かける。そのたびに、「本当にそうなのかな?」と(完全に余計なお世話だけど)少し心配になってしまう。(ちょっと大げさに言っているテンプレート表現なのかな、とも思うけど)

誰かが言語化した思いは、それを書いたその人が深く思考してたどり着いたものだ。あなたの深い部分にある思いを自分で言葉にしようとすれば、きっと全く違う言葉が出てくるはずなのに…と思ってしまうのだ。

言語化することは、ものすごく労力を使う。もちろん忙しいと自分の思いを深く考察して言語化する時間なんてないし、私自身そういう事態に陥りもどかしく思うこともしょっちゅうある。でも、常に誰かの言葉への共感だけで終わらせていたら、自分で思考する力が弱まってしまう、という危機感がある。他人の言葉に自分の思い(の一部)を重ねて共感するだけで満足して、最初から自分で思考することを放棄するのが癖になるのは怖いことだ。

僕が書くことが好きでは無いが、いや好きかも、書くことによってちゃんと思考する時間を持てるからだと思う。書きながら考えがまとまっていき、ちゃんと言語化できるとすっきりする。(だから公開を目的とせずに書いて満足して下書きにたまっているnoteが実はかなりある。)

というわけで、意識的に思考を言語化する時間を持つことは僕にとってすごく大切なことだ。思考して初めて出てくる言葉、あるいは言葉が出てきて初めて気づく自分の思い、というものが確実にあると思う。

2. 言葉の暴力性を忘れずに、心に誠実な言葉を紡ぐこと
匿名の独り言であってもインターネットの海に何らかの意味を持つ言葉を放つ時にはやはりほんのりと緊張感が伴う。好きなものへの称賛や期待、政治や社会問題への批判や疑問などなど、どんな感想や意見にしても、自分以外の人や物事に関わるものに言及する時はいつだってそうだ。

もう長いつきあいになる友人や家族とのやりとりでも、慎重さを要する話題などは相手にうまく伝えられると思う時まで時間を置くこともある。文脈をしっかり共有できていないと言葉は簡単に誤解を招いてしまう。

仕事のメールはもちろん、友達とのLINEのやりとりでも送信する前に何度も書いた文章を読み返す。

根底に、言葉は怖い、という思いがある。

言葉は怖い。その暴力性に無自覚でいることは怖い。生きている中で他人から思いもよらない言葉で殴られたり刺されたりしたことがない人はいないんじゃないかと思う。逆に、何気ない言葉で自分が誰かを殴ったり刺したりしたことに気づいていない人も、結構いるような気がしている。過去の私は間違いなくそこに含まれるし、現在進行形で気づいていないことだってあるかもしれない。

思っていないことは言わない、というのが昔から自分の中での心情だけど、それと同じくらい、ここ数年より強く思うのは、思っていても言わない、という判断もすごく大切だということだ。これは特にSNSを見ていて思うことで、本人に直接それを言ってしまうの?と驚くことがたびたびある。悪意に限らず好意のつもりで放たれたであろう言葉ににじむ暴力性だってある。

指先1つで誰でも誰にでも簡単に言葉を投げられてしまう今の時代、仮に何かを思っていてもそれが色んな角度から見て言う必要性のない(相手に伝える必要のない)感情や言葉ならば不用意に言わない、という判断をすることも一人一人に求められていると思う。

もちろん、放った言葉を相手がどう受け取るかは、それを受け取った瞬間の相手にしか分からない。だけど最低限、どんな言葉にも暴力性という側面があることを常に頭の片隅に置いておくことで、言わずに済むことや防げる後悔があるように思う。

言葉は本当に難しい。”取扱注意”の札を常に貼っておきたいくらいだ。

それでも、言葉が大切なコミュニケーションツールであることは言うまでもない。だから自分の言葉とうまくつきあっていきたいと思う。

言葉を自在に操れるようになれたらどんなにいいだろう。心をそのまま乗せたような言葉がいつでもスルッと出てくるのが理想だけど、それは僕にとって(特に口頭だと)なかなかに難しいことだ。それでもやっぱり自分が本当に思っていることを、心に誠実な言葉だけを紡ぎ出したいと思う。自分の心を表すのにぴったりな言葉が出てこなくても、それになるべく近い言葉を探したい。

これもやはり筋力なのだと思う。いいかげんにやっていたら、いつまでたってもきっと上達しない。

心の中にある思いと言葉の隔たりを少しでも減らせたら、自分が嬉しい。そしてその積み重ねた言葉がきっと自分を作る。だから心に誠実な言葉を、と思うのだ。

言葉は怖いと書いたけど、その怖さは言葉というものの影響力にも潜んでいる。言葉がじわじわと人や社会に与える影響はものすごく大きいと思う。もちろんそれは時にプラスにも働くし、大きくマイナスにも作用する。これが3番目の大切にしていることにつながる。

3. 目の前の言葉に自覚的であること
まず、”よく見聞きする言葉”への違和感について、3つほど例を挙げてみたい。

例えば誰かの技術や個性について言及する時、褒め言葉の体でよく使われる「女性らしい/男性らしい」という表現への違和感が、もうずいぶん前からある。その形容詞を用いて誰かの何かを褒めている人に悪意がないことは分かる。ただ単に(相手の性別を認識した上で)枕ことばのように気を利かせたつもりで添えているだけなのかもしれない。

でも、あえて性別を強調することに、”その性別らしい”かどうかに、果たして何の意味/価値があるんだろう?と思うのだ。そもそもそこで定義しようとしている性別らしさとは?というジェンダーの話にどうしてもなる。本当は全部”その人らしさ”でしかなくて、本質的な部分で性別は関係ないはずだ。

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それから、人の容姿について日本でよく使われる「顔が小さい」「鼻が高い」「目が大きい」などの表現も、本当に奇妙な視点からの”褒め方”だなぁと思う。
そもそも顔のつくりなんて千差万別で、パーツの形や大小を他人と(無意識にせよ)比較して”褒める”ことに何の意味もないはずだ。そして何より人の容姿を直接一方的にジャッジするような発言はやっぱりスマートな振る舞いじゃない。

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また、差別的な「家制度」が日本で廃止されてもう70年以上たつのに、いまだに「お嫁に行く」とか「入籍する」という言葉を本当によく見聞きする。結婚して名字を夫側のものに変えた姉は「婚姻=夫婦となる2人がそれぞれ親の戸籍を抜けて2人の戸籍を新しく作ること」(既存の戸籍に入る”入籍”ではない)と知っていながら、ある時「私はお嫁に行ったと腹をくくっているから夫の家のお墓に入ることに抵抗はない」と言っていて本当に驚いてしまった。まるで旧民法の家制度が現代でも続いているかのような口ぶりだったからだ。

日本では民法上どちらかの名字に統一しないと法的に夫婦になれないから片方が名字を変えるだけで、相手の”家”にお嫁になんて行っていない(そんな制度はもう存在しない)のに、妹は完全に”嫁”という言葉に引っ張られていた。「お嫁に行く」や「入籍する」など家制度の名残が残る言葉がいまだに普通に使われ続けているために古い認識が払拭されず、「結婚=片方が生まれ育った”家”を出て相手の”家”に入るもの」という間違った認識をする人が今も絶えないように思う。言葉の影響は大きい。

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こういう、ともすれば惰性で使われやすい言葉に、せめて自分は自覚的でありたいと思う。大勢が何となく使っていて日常的によく見聞きする言葉からいったん距離を取り、よく見つめること。その言葉の無意味さ、空虚さ、間接的な有害さに気づいてしまったら、もう無自覚だった頃の自分には戻れない。

しつこいようだけど、これらの言葉を使っている人に悪意がないのはよくよく分かっている。だけど、自分が発する言葉や生活の中で触れる言葉にはいつも自覚的でありたいし、そういう人が少しでも増えるといいなと思っているので、あえて表明しておこうと思った。

なぜかというと、みんなが何となく使っている言葉が社会の空気を作っているからだ。ジェンダーに基づく差別や抑圧、偏ったルッキズム(外見至上主義)、家父長制(家制度)の亡霊など、これらは全部日本にまだまだ根強く残っていて、誰かの生きづらさを作り出してしまっていて、だからこそ、いつかきれいさっぱりなくなってほしいものだ。

何となく使われる言葉によって社会にかけられた呪い(虚構とも呼べる価値観)は、それに代わる丁寧な言葉が市民権を得ていくことで解くことができるはず。たかが言葉、ではないのだ。

だから目の前の言葉にはいつだって自覚的でありたいし、その中で「今まで普通に使っていた言葉」への疑問が不意に生まれたら、その言葉の意味するところを立ち止まって調べて考えることを忘れずにいたい。まずは気づくことが大切だ。

◆おわりに
ふだんから思っている「#自分にとって大切なこと」について、改めて言葉にする機会がなかったので、今回このテーマでまとめて書くことができてよかった。

こうして「言葉を大切にすること」について書いていても、未来の自分から見たら今の僕はきっとさまざまな配慮に欠けた発言をいくつもしているのだと思う。”今の自分”の視野は、未来から振り返れば悲しいほどにいつだって狭い。だからこそ、本当にその言葉を使うことが適切なのか?と問い続けることを習慣にしていたいと思う。

言葉を大切にすることで、自分も社会も、まわりまわっていろんなことがもっとよくなるはず。そう信じて、これからも言葉をないがしろにせず、大切につきあっていこう。
〜 佐藤憲一 〜dscf6339c s__55271430

 

 

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